雲が近かった。手を伸ばせば触れられそうだ。空に青く染められた陽光が私の肉体を貫いていく。
私はすでに死んでいる。なぜ死んだのか、それまでどんな風に生きてきたのか、生きのびたならば何をしようとしていたのか、その全てがもうどうでもいい。死人に過去も未来もない。 感覚は残っているようだ。こうして空を眺めることもできるし、風の音も聞こえる。息をしてもいないのに、砂と草の匂いがわかる。
乾いた大地が私のまわりに広がっている。つまみあげれぱ崩れて風に消えて行きそうな土に、雑草がかろうじてしがみついている。ただそれだけの風景が、そびえる山に視界を遮られるところまで続いている。
とかげが私の腹の上に乗った。私を生きものとは思わなかったようで、そのまま体の上を歩いて顔に乗った。しばらくそのままでいたかと思うと私の顔を蹴りつけるようにして走り去っていった。どうやら日光浴をしていたらしい。
青空に、鳥が輪を描いた。猛禽類独特の優雅な飛翔を見せ、私の真上で二度、三度と円を描く。どうやら私という餌に気づいたらしい。羽根をたたんで急降下して、私に激突する直前に翼を大きくひろげ、ふわりと胸の上に降り立った。
鳥は私の目をじっと見ていた。私も動かない濁った瞳で、彼の黒々とした目玉がほんの少し寄るのを見ていた。
彼のくちばしは素早かった。私の右目を貫き、えぐり出し、宙に一瞬放り上げてから受け止め、呑みこんだ。痛みはなかった。死者だから当然かもしれない。続いて左目をくりぬかれた。目がもうないにもかかわらず、私は自分の目が貪られるさまを見ることができた。
鳥は、顔を中心にあちこち食い散らかすと、私の上でしばらく毛づくろいをして、飛び去っていった。
鼻も無くなっていたが、血の匂いと、血を吸った砂の匂いが広がっていくのがわかった。次に来るのは誰だろうか。
アリが這っている。骨にこびりついたわずかな肉をこそげ落として、持っていこうとしているのだ。最初に鳥につつかれてからどのくらい経ったのか。死人に時間は意味がないが、私の肉体はもうほとんど骨しか残っていない。それでもまだ空も見えるし、風の音も聞こえる。アリが眼窩から入ってきて、腐りかかった脳味噌を食い散らかしているのも感じる。
たくさんの鳥や獣が私のもとを訪れた。山猫は内臓をほとんど食べていったし、野良犬はももの肉を食った。食いでのある部分があらかた無くなると、野ネズミと肉食の昆虫の出番になった。今はアリが仕上げをしている。
骨だけになっても、まだ私はここにいるのだろうか。あるいは骨が崩れて無くなっても。
かちり、と音を立てて大腿骨が砕けた。犬は吐き出すようにそれを放り出す。食えたものではなかったらしい。いきがけの駄賃、とばかりに私のあばらを蹴飛ばして去っていく。あばら骨は簡単に崩れた。
雨が降らないので、私の骨は流されることも埋もれることも無くそこにあった。末節から次第に崩れていっているが、まだ半分以上は残っている。とはいえ、もうアリさえ私のことを障害物としか認識していない。
二、三日前に旅人が通りかかった。私を見てもさして驚いた様子も無く、数分間手を合わせて立ち去っていった。それが私が死んでからはじめて見た人間で、今のところそれが最後だ。私はすでに人間ではないのだが、それでも人間にとって私はまだ特別の存在なのだろうか。
からっぽの頭蓋骨の中で、迷い込んだアリが出口を探している。
私はどこにいるのだろうか。骨はあらかた崩れて、頭蓋骨も原型を止めていない。生えはじめた草が私のいた場所をゆっくりと覆い隠していく。もう、誰が見てもここに人がいたとはわかるまい。
何も見えないが空は青かった。鳥が飛んでいる。あるいは私を一番はじめにつついたあの鳥か、その息子かもしれない。耳は聞こえないが鳴き声を聞いた。鳥が風を切っていく音も。
あるいは私は、夢を見ているのかもしれない。生者と同じことを同じように感じ続ける夢。ならばこれは、生きていることとどこが違うのか？
違いはあった。私は、世界に対し何もすることができない。自分から何かに触れることも、自分の意志で何かを見ることさえできない。私は、そこにいるだけの、何の意味も持たない死体だった。
いつの間にか、目は見えなくなっていた。耳も聞こえなくなっていた。すでに目もなく、耳もないのだからむしろ当然と言えた。
その代わり、私は伸びていくのを感じていた。私の崩れた骨に根をしっかりと絡ませ、何本もの草が伸びていくのを感じていた。
草が風に揺られるとき、私も風に揺れた。それが葉を広げるとき、私もともに広がった。
草と同じことを同じように感じながらも、私はやはり死体だった。成長していくのは一本一本の草たちであり、それは私ではなかった。
つぼみは、今まさにはちきれようとしていた。内圧が極限まで高まっていくのを感じる。押し負けるようにつぼみが裂けて、その中から、くしゃくしゃの花びらが顔を出した。乾いた風にあてられた花びらは、かすかな湯気を立てて、自分自身をひろげはじめた。
それはぴん、と開き切ったとき、登りはじめた太陽の光が差し込むのを見た。
そう、私も太陽を見た。私から生えた一本の草は一瞬、私と一つになった。私はもはや死体ではなかった。
そして、私は一本の草でもなかった。私から生えた全ての草が私だった。私は互いに絡み合ったり離れたりしながら、地上の茎でも地下の根でも必死で伸びようとしていた。
それから私は、鳥であり、山猫であり、野犬であり、野ネズミであり、アリであった。私を食らい、肉を自分の肉に、血を自分の血に変えていった者たち全てが私だった。私は遺伝子の中まで入り込んでいき、子、孫に至るまでも私だった。私が私を食べていることさえ珍しくなかった。
かけらとなった私は風に乗ってこの地を離れ、海を越えようとしていた。幾分かはそのまま海に落ち、波間に漂う小さな生き物も私になった。
私は今や、世界を覆い尽くそうとしていた。そして、世界を覆い尽くそうとしているのは私だけではなかった。あらゆる死者が、いや、生きることを止めたあらゆる命が私と同じように世界を覆っていた。今生きているものたち全てとともに。
もう、『私』は意味をなさない。
『世界』も。『あなた』も。