第一話 白い通路を、カオリは走り続けていた。
人が三人並んで通れるくらいの幅の通路は、床も壁も天井も、染みひとつなく白く塗られている。通路の両脇には、これもまた白いドアが等間隔に並んでいた。ご丁寧にノブまで真っ白だ。
とにかく下へ下へと逃げ続けていた。一階にたどり着けば外へ出られるはずだと思っていたが、いっこうに一階につく様子がない。あるいは、すでに地下まで潜ってしまっているのかもしれない。
気が狂いそうだ。ここで白くないものは、カオリ自身だけ。今カオリが着ている服も、ここに連行されてから着せられた、白い囚人服だ。そして、等間隔に並ぶドアの列と、ひたすら直線に伸びる通路は、少しずつ、だが確実にカオリの意志を削り取っていた。
ついにカオリはへたりこんだ。
『もう走れない』
体力よりも精神力の限界だった。それでも、白いドアの中で見た光景に対する恐怖が、もう一度カオリを立ち上がらせた。
立ち上がったカオリの目に、黒いものが映った。
『……マンホールの蓋に見えるけど？』
やはりそうだった。開けると下水の匂いが上がってきて、カオリはむせた。それでも、息を止めて、彼女は下水に身を踊らせた。別段、思想とか、国家に対する憎悪とか、そういったものがあって反政府ゲリラに参加したわけではなかった。カオリに限らず、メンバーの大部分がそうだと思う。
国家という枠組みが壊滅した後の混沌の中に、ジーザスタウンというシステムは忽然と出現し、瞬く間に世界を席巻していた。
現在、世界には二百五十七のジーザスタウンが存在し、人類の九十パーセント以上を管理するに至っている。各ジーザスタウンにおける元老院の統治は、完璧といってよい。ジーザスタウンの目的はただ一つ、
『全人類の完全な幸福』
である。全ての貧困は排除され、市民の欲望は可能な限り満たされている。
また、ジーザスタウンに死刑は存在しない。
「いかなる理由があろうとも、人々を幸福にすべき国家が市民を殺害することは許されない」
創設者グルジェフ博士の言葉である。ゆえに、破壊活動を行うものも、処罰されるのではなく、『処置』と呼ばれる方法によって矯正されるのだという。
だから、反政府ゲリラに参加することは、若者にとって一種のゲームのようなものだった。極端な話、何人殺しても殺されることはないのだ。それに、幸福が保証された生活は、カオリにとってあまりに退屈であった。幾つかの破壊工作に従事し、元老院の武装兵に捕らえられてもまだ、どこかゲームのような感覚でいた。
これがゲームでないと気づいたのは、隙を見て脱走した後の話だ。何時間、下水道を走っただろうか。はじめは鼻について仕方のなかった匂いにも、もう慣れた。追っ手の足音がついてきていないことを確かめ、壁にあった小さな窪みに腰掛けた。
あの時、脱走しなければ、あんなものを見ることもなかったのだ。そして、何も知らずに『処置』を受け--ぞっとした。このまま一生、ドブネズミのように下水道を這いずり回って、二度と日の目を見ることがなかったとしても、『処置』されるよりはましだった。
脱走して、とりあえず、手近な所に隠れようと思った。幸い、白い通路の両脇には無数のドアが並んでいる。その一つのノブに手をかけた。押した。簡単に開いた。
部屋の中も、白一色だった。頭にぐるぐると白い包帯を巻き付けた二十才くらいの男が、白い服を来て、床に腰をおろしていた。男の目の前には白い積み木があり、彼はそれを無心に積み上げては崩し、積み上げては崩しているようだった。
精神病棟か何かに紛れ込んだのだと思った。
『こいつを人質にすれば逃げおおせるかも』
そんな計算が働き、カオリはゆっくりとその男に近づいた。すると、この男をどこかで見たことがあるような気がしたので、正面にまわりこんで、よく顔を見ようとした。
「……シゲル！」
かつてカオリを反政府ゲリラに引きずり込んだ張本人は、目の前にカオリがいることに気づいた様子もなく、無心に積み木を崩していた。
カオリは、彼の肩をつかんで揺さぶった。そうすれば昔の彼が戻ってくるかのように。 シゲルはうるさそうにその手を払いのけた。積み木遊びを邪魔されたくないらしかった。
カオリは部屋を飛び出すと、隣のドアを開けた。その隣も、その隣も、みんな知っている顔だった。思い思いに、積み木やブロック、おもちゃの自動車などで遊んでいた。
犯罪者の脳にチップを埋め込み、社会への不満を取り除くのが『処置』だと聞いてはいた。だが、『処置』された人間がどうなるのか、誰も教えてはくれなかった。『処置』されたシゲルは、とても幸せそうだった。
「でも、あれは幸福じゃない」
カオリは、自分の気持ちを確認するかのようにつぶやいた。
「自分をなくしちゃったら、そんなのは幸福でもなんでもない」
力づくで他人を幸福にするなんて、許さない。カオリは、はじめて本当に、ジーザスタウンに対して、憎しみを抱いていた。
「こんな街、ぶっ潰してやる！」
だが、どうすればいいのか。本部への奇襲で、ゲリラの仲間たちは全員捕らえられた。カオリの脱走で向こうも警戒を厳しくしたろう。おそらくもう、一人も逃げては来るまい。カオリは、一人ぼっちだ。
「それでも、許さない！」
だが、現実には、追われて隠れているのはカオリの方なのだ。少しうとうとしていたらしい。反響する足音で目が覚めた。逃げようと体を起こしかけてはじめて、自分の逃げこんだところが袋小路だったことに気づいた。
「……畜生っ」
小さく毒づいて、壁をぶっ叩いた。
「……？」
音が違った。何カ所か、拳でノックするように叩いてみる。やはり、他の壁と音が違う。そういえば、この窪みは、何かの入り口の後のように見えなくもない。
注意深く壁を探った。足音が近づく。焦る。ごとり。音がして、小さく壁が開き、暗黒が口を開けた。
さらに足音が近づく。迷っている暇はなかった。飛び込んだ彼女の後ろで、小さな音を立てて入り口が閉じた。少しほっとして、闇に目が慣れてくるのを待つ。下水道の奥にあるせいか、湿った、かび臭い匂いがしたが、下水道の匂いよりはましだった。
突然、灯りがついた。非常灯のような、小さな灯りが列になって道を作っている。それに沿って歩くしかなかった。追っ手が入り口を見過ごしてくれるとは限らない。それにここは、少なくとも政府の施設ではないらしい。政府の施設なら、内部は白一色で統一されているはずだ。
その考えを慰めに、百メートルほど歩いた。終点は、観音開きの鉄扉だった。南京錠が下りていたが、湿気と時間の経過で腐っているようだった。短く見積もっても百年は誰も出入りしていないのだろう。蹴飛ばすと南京錠は簡単に壊れて、鉄扉が開いた。
奥は小さな部屋になっていた。天井から下がっている灯りの真下に、鎖に縛られた黒ずくめの男が座っていた。
「……誰？」
声をかけたが、男は目を開けようとはしなかった。死んでいるのか、とも思ったが、近くで見るとそうは見えなかった。
「……そんな！」
この部屋に、他に入り口はない。今し方カオリが蹴破った鉄扉は、百年以上も誰も開けていない。つまり、この男は、ここで鎖に縛られたまま、百年以上も生きていることになる。
恐怖も感じたが、好奇心がそれに勝った。カオリが、まるで息をしているようなその唇に指先を触れようとした時――
「いたぞ！」
武装兵のゴーグルが、闇の中で不気味に光った。
まさか、こんなに早く。カオリは敵の人数を確認した。麻酔銃を構え、白い防護服に身を包んだ武装兵が八人。
『対するこちらは、素手の女一人と、鎖で縛られた男一人』
男をこちら側の人数に数えている自分に気づいて、カオリは苦笑した。生きてるか、死んでるかもわからないのに。
「嬢ちゃん、あまり手間をかけさせないでくれよ」
カオリは、無意識に男をかばうように立ちはだかっていた。
「……殺してちょうだい」
「そうもいかん。殺人は、禁じられている」
「『処置』されるなら、死んだ方がいいわ」
武装兵は答えなかった。マスクの向こうで、表情は見えない。ただ、少しずつ、間合いを詰めてくる。
「あんなの、幸福じゃない……生きてるとさえ言えない」
『生きてる』と言った時、椅子の男の指先が、ぴくりと動いたような気がした。だが、そちらを見ている暇はなかった。
「これも任務でね。安心しなよ。『処置』されちまえば、そんな余計なことは感じなくなるさ」
カオリは間合いを測っていた。あと、一歩。一歩踏み込んでくれれば――
「わかってくれよ。俺たちは、命令されてるだけなんだ」
今だ！カオリは踏み込んだ。左手で、先頭の男の銃を搦め捕るようにしながら、右ヒジを男のアゴと思しきあたりに叩きこんだ。よろめいて武装兵が二、三歩後退した時、彼の銃はカオリの手の中に移っていた。本当は、アゴの骨を砕いてやるつもりだったのだが、ジーザスタウン製の防護服の性能は、思った以上らしい。だが、銃が手に入れば十分だ。
七つの銃口が一斉にこちらを向いた。別に撃ち合う気はない。カオリは不敵に笑った。
「『あたし』は、渡さないわ」
麻酔銃でも、至近距離で連射すれば人を殺すことができる。ゲリラで学んだ事だった。カオリは微笑むと、自分に銃口を向け、引き金を引こうとした。
鎖が弾けて、地面に散らばる音の方が、銃声より一瞬早かった。
がががががっ。
カオリが自分に向けて放ったはずの銃弾は、天井の灯りを砕いた。視界が闇に閉ざされる一瞬、カオリは自分の手から銃をはたき落としたものの姿を見た。
それは、黒い異形だった。
「き、貴様、何者だ！」
武装兵はゴーグルに暗視装置を備えているらしく、カオリを救った影の正体がはっきり見えているようだった。
「俺の名は、ハカイダー！」
麻酔銃が一斉に火を吹いた。だが、ハカイダーと名乗った異形は、麻酔銃の一斉射撃にもまったく怯むところがないようだった。
「麻酔銃じゃだめだ、実弾を使え！」
誰かが叫んだ。
「……一つだけ、聞かせてもらおう」
異形がはじめて口を開いた。暗い声だった。
「お前たちは『処置』を受けているのか？」
「馬鹿を言うな、我々は犯罪者などではない！」
「『処置』を受けてもいないのに、他人の命令を聞くのか？」
救い難い、というニュアンスの籠もった口調だった。
「自分の意志を持たぬのなら、生きていても意味はないな」
「撃て！」
狭い部屋の中で反響する実弾の射撃音に、カオリは思わず耳を押さえた。それでも床を通して腹まで音が響いた。耐えながら、閃光の中に躍る異形の姿を見ていた。
革のような光沢を持つ黒い肉体のところどころに、鋲のようなものが光っていた。胸から肩にかけてを覆う三日月形のプロテクターの中心には、そこを切り裂いて何かを抉り出した跡のような、赤い十字の傷痕があった。だが、彼の異形たる所以は、その頭部にこそあった。
脳が、露出していた。頭蓋骨の上半分を取り去って、代わりに透明のフードを被せたような格好だった。目から頬にかけて、血の涙を流しているかのようなラインが描かれ、口は憎悪に歪み、いびつに引き上げられていた。
一方的な殺戮劇だった。異形の腕が一閃するたびに、武装兵の腕が、足が、首が――五体のどこかがちぎれて飛んだ。武装兵の銃弾は、黒光りのする革のような異形の皮膚に当たって跳ねるばかりだった。全員を殺し尽くすのに、大した秒数はかからなかった。
ハカイダーと名乗った異形が八人の武装兵を殺し尽くした時、ちょうど予備の灯りが灯り、凄惨な情景を照らし出した。だが、血まみれでただ一人立っているのは、もはや黒い異形ではなく、さっきまで鎖に縛られていた黒服の青年だった。
「……あんた、何者なんだい？」
カオリは、伏せていた身を起こしながらたずねた。
「言ったはずだ。俺の名はハカイダー」
「どうして、あたしを助けた？」
「お前が、生きようとしていたからだ」
「あたしは、自殺しようとしてたのよ？」
「生きるとは、自分の意志で行動することだろう？お前は、自分の意志で、自分の命を断とうとしていた」
カオリは、おおげさに肩を竦めて見せた。
「自殺も生きることのうちに入るのかい？」
「俺にはよくわからん。何しろ、俺は生きていないからな」
「あんた、脳みそがついてたじゃないか。サイボーグじゃないのかい？」
「あるいはそうかもしれない。俺にも、自分がロボットなのか、サイボーグなのかわからない」
「……何か、昔の事とか、覚えていないのかい？」
「データならある。記憶は、ない」
「可哀想だね……」
「その感情も、よくわからない」
しばし、二人は見つめあった。
「あんた、ジーザスタウンを敵にまわしたよ」
「知っている」
「じゃあ、あたし達と一緒に闘わないかい？こう見えても、あたし、反政府ゲリラの一員なんだ。あんたとあたし達が手を組めば、ジーザスタウンだってきっと、ぶっ潰せるよ！」
ジーザスタウンなんて、ぶっ潰してやる。下水道の奥で、絶望に打ちひしがれながらしがみついた思いに、はじめて実現の可能性が生まれた。彼の――ハカイダーの力なら、勝てる。きっと、ジーザスタウンを潰せる！
「あたし達、か……では聞くが、お前の仲間はどこにいる？」
皮肉な口調で言われて、カオリには返す言葉もなかった。
「……みんな、捕まっちまった。今頃は、多分、『処置』されてるだろうよ。だから、あんたに頼んでるんだ。あたしと一緒に、あいつらの仇を討ってくれよ！あんたならきっとできる。あたしとあんたで、ジーザスタウンをぶっ潰すんだ！」
カオリは言葉を続けようとして黙った。男の目が、冷たく光ってこちらを見ていた。
「俺は、命令されるのが嫌いだ」
冷たい目線に縛られたように、動けなかった。
『殺される』
ほとんどそう信じた。
「……だが、ジーザスタウンを滅ぼすのは、俺の宿命でもある」
「じゃあ！」
「ついてくるのは別に構わん。だが、面倒は見ない。自分の身は、自分で守れ」
武装兵の死体から実弾入りの銃を奪うカオリを、百年の眠りから覚めた男は黙って見守っていた。