ヒンズー・スクワット ふん。ふん。ふん。
かかとがまた尻に触れる。上体をできるだけまっすぐ保って、膝をぐんと伸ばす。肘を曲げた状態で腕を後ろに思いっきり振りながら、尻がかかとにつくまで膝を曲げる。腕を前に振り戻しながらまた膝を伸ばす。
三千回だ。三千回膝を曲げた。三千回膝を伸ばした。雨の日も風の日も、酒を飲んだ日も、女に振られた日も三千回やった。三年間やった。
何がタッパが足りないだ。ふざけてやがる。ヒンズースクワットがコンスタントに三千回できるのに、プロレスラーになれない道理があるか。
これで千回。三百回くらいのところから噴き出し始めた汗は、もうシャツをびしょ濡れにしている。
プロレスのどこが悪い。俺が嫌いなら嫌いと言えばいいんだ。気に入らない男を振るなら、気に入らないと言えばいいんだ。だのにあの女は、プロレスのせいにしやがった。趣味が違い過ぎてついていけないと、そう言いやがった。最低の女だ。理由を創らないと男を振ることさえできないんだ。そんな女に本気で惚れた俺は、もっと最低の男だ。
まだ陰毛が蒸れるのが気になる。ブリーフでなくてトランクスにしておけばよかった。インキンになったらどうしよう。
千と百一。千と百二。千と百三。
鼻の頭から落ちた汗が口の中に入る。顎が上がっているんだ。顎を引く。
誰も見ていない。俺に門前払いをくらわした奴も、三百回くらい見て、中に引っ込んでしまった。でも、俺にはこれしかないんだ。俺自身を証明する手段が他にないんだ。
畜生。
小さめのオッパイ。乳輪がやや大きめだけど、形がよくてしまっている。腹は少し出ているけれど、それも可愛い。
ああ、俺は何を考えているんだ。彼女のオッパイなんか見たこともないくせに。そもそも母親のものを除けばオッパイなんて触ったこともないのに。
ああ、オッパイ。
大腿部の筋肉がそろそろ悲鳴を訴えはじめる。スクワットをはじめたばかりの頃は、百回もやらないうちに足が突っ張って曲げるのが苦痛になった。三百もやると、翌日階段が降りられなかった。筋肉痛の時は、登るより降りる方がきついのだ。できるだけ痛くないように、足を突っ張らせて腰ごと回転させ、左足を降ろしたその段に右足を、両足をいったん揃えてから次の段へと降りていった。おかげで何回遅刻したことか。電車に駆け込めないのだ。
大腿部の次に、ふくらはぎが悲鳴をあげる。こむら返りのような痛みを瞬間的に送って警告する。もうもたないぞ、と。でもそいつは嘘だ。そうそうスクワットでこむら返りは起きない。
千五百五十二。
強くなりたいのだ。熱く生きたいのだ。勝ち負けだけをとって八百長だと決めつけるな。リングの上では、真剣に闘っているのだ。真剣に生きてもいないくせに、真剣に生きてる奴らを馬鹿にするな。
畜生。女が欲しい。やりたい。
選手寮からは誰も出て来ない。顔を出してのぞいてもいない。どんなにスクワットができたって、タッパがなけりゃリングには上がれないのか、畜生。でも、俺にはこれしかないんだ。スクワットしか、ないんだ。
ぬるっと、汗が耳の穴の中に入ってくる。右の耳だ。気持ち悪い。
二千を越えるあたりが山だ。無理してまっすぐ伸ばした背中がぴきぴきと痛み、足も最初の限界を訴える。だが、まだだ。まだ三千回もやっちゃあいない。しかも三千回というのはレスラーにとってはほんのスタートラインだ。俺を認めさせるには、五千回、いや、一万回でも二万回でもやらねばならない。俺は今、レスラー達の住む寮の門前でスクワットをやっているのだ。俺にはスクワットしかないのだから、スクワットでプロのレスラーを納得させなくちゃならないのだ。こいつはいわば、乱入だ。
レスラーになると言ったとき、親父は俺を馬鹿にした目付きで見た。兄貴も、母親もそうだった。気に食わないのなら怒ればいい。あの目は、どうせ駄目だと思っていて、あとで駄目だったら馬鹿にしてやると思っている目だ。ふざけやがって。
左足の小指を丸めて巻き込んでしまった。バランスをなんとか立て直して、親指の付け根に体重をのせた。二千二百二十五。
窓の中に気配がある。何人かのレスラーがぼつぼつ俺のことを見始めた。だが、まだだ。全員に俺を見させなくてはならない。窓を開けて見るようにさせなくてはならない。
プロレスがそんなに嫌いか。闘う男たちがきらいか。プロレスにエキサイトするのがそれほど滑稽か。エキサイトしない人生なんて、一体何だと言うのだ。拳を振り上げてレスラーの名前を叫ぶ瞬間こそが至福だ。そして、自分がそのリング上に立てるのなら−いや、立つのだ。憧れだけじゃやっていけないだろう。でも俺は、毎日三千回のスクワットをやっている。タッパがなんだ。女に振られたのが、なんだ。オッパイに触りてえなあ、畜生。
三千と十七。足が冷たい。かるい血行障害がはじまっているのだ。足が痺れかけているのとちょうど同じ感覚だ。まだスクワットのペースは落ちていない。まだレスラー達は顔を出していない。ここからが勝負だ。三千回は、できて当たり前なのだ。
唾を飲み込もうとして、空気を飲み込んだ。唾がもうほとんど出ない。汗の流し過ぎによる軽い脱水だ。アスファルトが俺のまわりだけ湿って、太陽に照らされて湯気を立てている。俺の背中や胸や腕や、全身からも湯気が立ちのぼっている。
何でこんなことしてるんだっけ?ああ、入門しようとしてたんだ。タッパが足りないんで門前払いをくって、意地になってスクワットを始めたんだ。たとえ十万回やったとしても、認めてもらえないかもしれないのに。
窓が一つ開いた。名前も知らない前座以下のレスラーが俺を見ている。きっと、馬鹿な奴だと思っている。それでいいんだ。ここのレスラー全員を引き付けるほどの馬鹿をやったなら、それで俺の勝ちだ。それが俺の価値だ。きっと入門できる。プロレスはそういう世界だ。リングの上で客をエキサイトさせた奴の勝ちだ。
ペースが落ちてきた。三千と七百五十六。尻がかかとにつく瞬間、かかとが尻を支え切れずに地面に落ちてしまいそうになる。落ちたら負けだ。多分そのまま後ろにひっくりかえる。そうしたらまたゼロからやり直しだ。そして、ゼロからまたやり直す気力も体力も、もうない。
あのオッパイの想像で何回抜いたっけ。本物の女性器は見たことがないから、彼女のそれも想像できない。オッパイだって実物とは全然違うだろう。乳首のまわりのぶつぶつとした突起……いけねえ、立ってきた。
プロレスがやりたい。女とやりたい欲望よりも、もっともっとプロレスがやりたい。そのくせリングに上がった自分の姿は想像できない。
足を曲げるのが苦痛にかわった。いつもを越えた過負荷に筋肉が悲鳴を本気であげはじめた。四千五百二十七。さっきの苦痛は、ウォームアップのための苦痛のようなものだ。ここからが本当の痛みだ。足を伸ばすときの傷みはたかがしれている。足を曲げるのが辛いのだ。膝を伸ばす度に、これでおしまいにしてしまいたくなる。でも腕を振り下ろしつつもう一度しゃがむのだ。
窓は三つ。五人。ついに五人のレスラーを引っ張り出した。だがまだだ。全員を引き出すのだ。
そりゃあ頭は悪いさ。でも、頭悪いからレスラーになろうというのでもない。ケンカだってそんなにしたことはない。俺はエキサイトしたいんだ。自分の生きざまで、他人をエキサイトさせたいんだ。レスラーはそのために生きてるんだ。
最初は他人のファイトでエキサイトして、それで満足だった。でも、いつの間にか物足りなくなっていた。そりゃあいいファイトは面白いし、エキサイトするさ。でも、なんかこう……他人をエキサイトさせることこそ、本当のエキサイトなんだよ。そして、それができるのがレスラーなんだ。
だから、今はスクワットをやめられない。これでプロのレスラー達をエキサイトさせなくちゃいけない。それができるなら、たとえ入門できなくたって、俺はもうレスラーだ。立派なプロレスラーだ。
六千と一。いつもの倍。窓は三つ、五人のまま。
汗が、もうほとんど出ない。実のところ、こいつはかなりヤバイ。脱水症状が本格的になってきたのだ。このままだと熱射病で倒れちまう。
でも、俺はレスラーだ。リングに上ったレスラーだ。相手を倒すか、自分が倒されるまで、リングを降りる訳にはいかない。
膝を伸ばすと、頭が大きく後ろに揺れる。膝を曲げると、今度は前に揺れる。口を大きく開けて、あえぐように息をしている。みっともないし、かえって呼吸が続かなくなることもわかっている。
いつの間にか両腕はだらんと垂れている。時々思い出したように振ることもあるが、たいがいは垂れたままだ。七千と二十。
口の中に酸っぱい空気が漂っている。胃液がそこまで上がってきているのだ。胃が焼ける。胃からの酸っぱい空気が呼吸とは別に口を通って流れ出す。
腕を持ち上げて、頭の後ろで組んだ。少しでも頭の揺れが押さえられる。ああ、だんだんオッパイもぼやけてきた。ナニはとっくに萎えている。なんとかしてもう一度オッパイを思い出そうとする。オッパイ。オッパイ。
八千二百七十四。
八百長なんかじゃない。八百長と呼べる側面もあるかもしれないけれど、あんな真剣な八百長があるもんか。オッパイも、いや、彼女も八百長だって言った。親父もお袋も兄貴も。
八百長。
オッパイ。
左膝が右膝よりわずかに早く伸びる。そのタイムラグが大きくなって、伸びる時のバランスが崩れはじめた。
窓がいっぱい開いている。でもまだ全部じゃない。いくつ開いているのか、いくつ閉まっているのか、何人顔を出しているのか、よくわからない。屋根が赤い。壁は白い板張り。
九千七十六。
腰から下に感覚はない。ひょっとして、もう引っ繰り返っているのかもしれない。倒れたまま、裏返された甲虫のように手足をばたばたさせているのかもしれない。いいや、まだだ。赤い屋根が白い壁の上にある。上下は合っている。
地面についていたかかとが、ゆっくりと持ち上がる。体重は親指の付け根に集める。そして、かかとと尻が触れる。触れたら、まず重心を若干右にずらして左膝を伸ばしはじめる。それから左に重心を戻して、右膝を伸ばしはじめる。多少タイムラグはあるが、ほぼ同時に両足が伸び切る。そうしたら息を止めて、痛みをこらえながら足を曲げる。またかかとに尻がつくまで。
一万を越えたところで、数えるのをやめた。開いていない窓は一つ。開けさせれば、俺の勝ちだ。もう回数は無意味だ。
はっ。はっ。
ずるっ。
右足が後ろへ滑った。膝がことんとアスファルトに落ちる。立て直そうと思う間に、左膝が、両腕が、頭がごんとアスファルトにぶつかった。
アスファルトが乾き切ってらあ。俺はいつから汗をかいてないんだ?
ぐわっと、足が重くなった。感覚がないくせに、痺れて、重かった。
起きなけりゃ。まだあの窓は開いていない。起きるんだ。起きるんだ。でも体はうごかなくて、ただ、涙だけが出た。脱水症状を起こしているくせに、ぼろぼろぼろぼろ涙だけが出た。
オッパイ。
八百長。
プロレス。
窓。
タッパ。
スクワット!
がばっ。一瞬だけ、俺の両足は伸びた。そして体重を支え、すぐに崩れた。
どさっ。アスファルトへ垂直落下するはずの俺の後頭部は、後ろからのがっしりとした腕に抱きとめられていた。
「上半身にも筋肉をつけねえとな。それにスタミナだ。一万とちょっとのスクワットでネをあげてちゃあまだまだだ。だが、十万回スクワットができても、おまえにゃ多分メインは張れない。タッパはやっぱり必要なんだよ。それでもいいんだな?」
彼が何を言っているのか、もうよくわからない。でも、顔はわかった。さっき俺を門前払いにした奴だ。こいつが例の最後の窓の中身だったのか。
へへん。ざまあみやがれ。俺はスクワットで、プロレスラーをエキサイトさせたんだ。俺はもう、プロレスラーだ。
まいったか。
オッパイ。