サーベルタイガー(後編) それから、九年間が過ぎた。
拳を使わない独特のファイトスタイルのまま、井波は快進撃を続けていた。
日本のチャンピオンになるのに、三年かかった。東洋を取るのにさらに二年。世界を取ったのは、それから三年後――今から一年前のことである。
井波豊は、二十六才になっていた。
充たされなかった。
キックボクシングは好きになっていた。
リングには、幾多のサーベルタイガーたちが――自分の牙を持て余している同類たちが集っていた。彼らと闘うことは喜びであったし、リングの上には生きている実感があった。
だが、ランキングが上がって行けば行くほど、後ろめたさも膨れ上がって行った。
俺は、自分の牙を使っていない。
世間では拳を使わないあの戦法こそが俺の牙だと思っている。だが、違う。俺の本当の牙はこの拳だ。拳を潰してしまうほど加減なしに相手を殴ることができる意志だ。
リングの上では、誰もが牙を持っていた。その牙を剥き出して、俺を叩き潰そうとかかってきた。
俺は、自らの牙を隠すことで彼らを倒してきたのだ。
いつの間にか、また箸が握れるようになっていた。だが、これは拳が直ったことを意味してはいない。今の力でこの拳を叩きつけたなら、今度こそ本当に二度と拳が使えなくなる。たとえグローブをはめていてもだ。
箸が握れることはむしろ恥ずかしかった。それは、俺が自分の牙を封印し続けているという証だった。牙を振るっている相手を、牙を見せることすらせずに叩き潰してきたことの証だった。
「今のおめえの牙はよ、そいつを封印し続けているってことそのものよ」
それが俺の闘いの力となっているのだと、麻薙さんは言ってくれた。
確かに正しいと思う。それでも、納得していない自分がどこかにいた。
わかっている。この拳を振るえば、リングには二度と立てない。
わかっている。拳を使わない戦法は、決して卑怯ではない。
だが、俺の手に入れた強さは、俺の望んでいた強さだったのか。
自分自身に納得できないまま、俺はチャンピオンとして闘い続けていた。
鼻が潰れていた。
体の数箇所にあるナイフ傷が、そいつの生まれ育ちを物語っていた。
カルロス本郷(ほんごう)――日系三世のブラジル人であった。あったと言うのは、数カ月前に日本に帰化したからだ。
井波の時代を揺るがすのはこの男だ――ファンの間ではそう囁かれていた。若干二十二才ながらも、すでに世界ランキング三位を手中にし、井波のベルトを射程距離におさめていた。日本に帰化したのも、井波と闘うためだという噂が流れている。
井波とは全く違った意味で独特のファイトをする男であった。極端なインファイターであり、タフネスさを武器に相手の懐に飛び込み、フックの連打でスタミナを奪っておいてハイキックでＫＯというのが得意のパターンであった。
本郷は全くと言っていいほどヒザを使わなかった。記者のインタビューに対して、
「ヒザ、得意、ないから……」
と、たどたどしい日本語で答えている。
「あいつは、ヒザで一人殺してるんだよ」
訳知り顔のファンが言う。記録を調べると確かに、新人時代に対戦相手が一人、試合直後に死亡している。しかしその試合で本郷のヒザ蹴りが使われたかどうかは判然としない。
「こいつとやらせてもらえませんか」
井波が麻薙のもとをたずねたのは、本郷の特集が書かれた雑誌記事を読んだ翌朝のことであった。
「まあ、いずれはやらにゃあならねえ相手ではあるんだけどよ……」
まだ朝だというのに麻薙は、『下町のナポレオン』というキャッチフレーズの焼酎を一升瓶でラッパ飲みしていた。井波が何時にたずねようが、麻薙が酒を飲んでいなかったことはない。
「噂がそんなに気になったか」
『井波を倒すのはコイツだ！』が、本郷の特集のタイトルであった。
「そういう訳でも、ないんですがね……」
すっかり敬語が板についている。麻薙に対してタメ口をきいていた頃が、嘘のようである。
「麻薙さんが俺をスカウトした時に、俺はうかがいましたよね。『あんたより強くなれるか』って――」
すっと、麻薙の目が細くなった。
「……今、試してみるか？」
多分、右手の一升瓶がまず飛んでくるだろう。それを叩き落として一撃目をかわし――。
ふっ、と空気が緩んだ。
「俺の右拳と、麻薙さんの左の鎖骨ですね」
井波も、細い目をして答えた。
「……だな」
今この場で闘いを始めたらどうなるか――二人は同じ結論に達したようだった。
「同じ潰すなら、リングの上にしたいですね」
「あの小僧相手に、潰す気か？」
井波は黙った。自分でもよくわからないのだ。
何故、本郷と闘いたいのか。
「……自分に、納得したいんですよ。その結果が、拳が潰れることだとしても」
本郷がヒザで人を殺したのかどうかは、限られた関係者以外知らない。麻薙でさえ知らないことだ。だが、そんなことはどうでもいい。
匂いだ。
写真を見た時、同じ匂いを感じた。サーベルタイガーたちの中でも、最も自分に近いものがそこにいると感じた。よしんばこれが幻想だとしても、拳を賭けるだけの価値はあると思った。
そんな意味のことを、まとまらない言葉で、まとまらないままに話した。
麻薙が、焼酎を飲み干して頭をごりごりとかいた。
くそったれ。
てめえは、その程度だったのかよ。
試合はすでに中盤戦に入っていた。第二ラウンド、残り時間二十秒。
第一ラウンドは、お互い様子見に終始した。第二ラウンド、仕掛けたのは本郷。一気に踏み込んでのフック連打という、得意のパターンである。
こんなものか。
巧みにヒザを楯にし、前蹴りを放って間合いを取る井波の前に、本郷はまったく突破口をつかめずにいた。そしてのこり二十秒、ついに井波が本郷の踏み込みをとらえ、首相撲に持ち込んだ。
くそったれ。
くそったれ。
本郷のアバラを削り取っていくようなヒザ蹴りだった。
その程度だったのか、お前の牙は。
何が必殺フックだ。
人を殺したヒザ蹴りだろうが何だろうが、使えなければ意味がない。
お前にくらべれば、関の方がでかい牙を持っていた。自分でも持て余す程の牙を、心の中に持っていた。
くそったれ。
俺の時代を揺るがすんじゃなかったのか。首相撲から逃げることもできないくせに、俺を倒す気だったのか。
終わりに、してやる。
井波が、右ヒジを振り上げると同時に、ゴングが鳴った。
「どうした？」
「え？」
「さっきの首相撲の時、本郷に『死ね』って言ったろう」
井波は黙った。口に出した覚えはない。だが、胸のうちでそう思わなかったか？
「俺がチキンウイング・フェイスロックに極めてやった時と、同じ目をしてやがったぜ」
麻薙が、意地悪気に笑った。
「……使えない牙を持って、リングに上がるべきじゃないですよ」
「セコンド・アウト――」
リングアナウナンサーの声が響いた。
同じだ。
こいつも、同じだ。
使えない牙を持て余している。大きすぎて、闘いにさえ使えない牙を。
このリングの上にキックボクサーはいない。ただ、不器用なサーベルタイガーが二匹いるだけだ。
終わりにしようぜ、もう。これ以上ぶざまな姿をさらすのは、お互い。
井波が踏み込む。ほとんど密着したような間合いで、本郷のパンチを封じる。
これで終わりだ。
冷たい目のまま、井波は右ヒジを振り上げた。
ぶん。
本郷のこめかみを打ち砕くはずの右ヒジは空を切った。
次の瞬間、井波は信じられないものを見た。
殺される。
殺される。
このままじゃ、殺される。
こいつは俺を殺す気だ。
第二ラウンド終了間際に振り上げられた右ヒジが、本郷には鋭い鉈に見えた。
あれはいつのことだったか。リオのカーニバルの熱気の中を、人ごみをなぎ払いながら逃げたのは。
汗みずくになって踊り狂う人々の中で、本郷ただ一人が一滴の汗もかいていなかった。
音楽が耳をふさぎ、カーニバル衣装の原色が目をふさいだ。追っ手がどこまで寄せてきているのか、見当もつかなかった。
悪魔だ。
死人のような目をしたその男は、本郷の仲間の脳天に何のためらいもなく鉈を振りおろした。シャワーのように返り血を浴びてもなお、そいつの表情に変化はなかった。
ジャンキーだ。薬物中毒で何も感じなくなっているのだ。理屈ではそうわかっていたが、本能が恐怖していた。何の感情も見せずに人を殺せる、その存在そのものに恐怖していた。
頭をざっくり割られたまま立ち尽くしている犠牲者を鉈を持った右手で払いのけて、そいつは近づいてきた。
本郷は次の瞬間、自分でも信じられない行動にでた。ジャンキーに向かって一直線に突っ走って行ったのだ。
鉈が頭の後ろを走り抜けるのを感じながら、本郷は相手の懐に飛び込み、思い切りヒザを振り上げた。
ズボンの股間の布が裂ける感覚があった。
ぐり。
振り上げた本郷のヒザは、ジャンキーのこめかみにめりこんでいた。
頭蓋骨が細かく砕けて、ヒザの向こうでじゃりじゃり音を立てるのを感じた。
そのまま本郷は走った。
誰も追っていないのに、追われているような思いで走り続けた。
カーニバルの夜は暑く、だのに本郷は一滴の汗もかいていなかった。
井波の頭のすぐ脇に、本郷のヒザが伸びていた。
馬鹿な。どんなに体が柔らかいといっても、立ったままの相手の頭部にヒザ蹴りをぶち当てるなんて、人間技じゃない。
ごっ。
頭を殴られたというより、脳を揺さぶられたような衝撃があった。
これが、こいつの、本当の牙か。
そのまま井波は昏倒した。
「まさか、あんな隠し玉があったとはなあ……」
カウント８で辛うじて立ち上がったものの、その後の井波は防戦一方であった。
あの一撃でふっ切れたのか、変幻自在のヒザが次から次へと井波を襲った。井波が両腕を防御のためだけに使う戦法を取っていなかったら、とっくに沈められていたはずだった。
第三ラウンドをしのぎきったものの、井波の劣勢は誰が見ても明らかであった。
第四ラウンドも、井波の苦戦は続いた。何とか距離を取って闘おうとする井波のキックをかいくぐり、接近してのフックが、ヒジが、そして頭部を狙ったヒザがガードの上から次々と井波をぶっ叩いた。
井波が押されてロープに、コーナーに押し付けられる度に客席から大歓声があがる。
「凄えぞ、本郷！」
「そこだ、やっちまえ！」
誰もが、井波の崩れ落ちる瞬間を見たがっていた。井波豊からカルロス本郷へと、時代が手渡される瞬間を誰もが待ち望んでいた。
くそう。
勝手な奴らめ。
俺が時代を取りに行った時、あいつらは俺の味方だった。
そんなものだ。
結局、客なんてのはそんなものだ。目の前で、時代が変わるのを見たいだけなんだ。くそったれ。てめえじゃ何もしようとしねえくせによ。
まあ、いいさ。俺はてめえらのために闘っている訳じゃない。俺という存在を、てめえらに見せつけるために闘っているのでさえない。
待てよ。
じゃあ、俺は何のために闘っているのだ？
「ダウン！」
残り時間が十秒を切ろうとした時、本郷のヒザが井波の側頭部を再び捕らえた。
一瞬背筋をぴんと伸ばし、一本の棒のようになってマットに沈むその姿は、誰の目にも本郷の勝利を確信させた。
時代を変えようとする、一撃だった。
あいつは、学者になっただろうか。
マンガが好きだったから、学者になりそこなってマンガ家になっているかもしれない。
誰のことだ？
そうだ。中学時代の俺のたった一人の友達だ。あいつが俺に、サーベルタイガーのことを教えてくれたのだ。
恐竜の時代と人間の時代の合間に生まれてきた剣歯虎――サーベルタイガー。獲物を捕るための牙を発達させすぎて、その大きすぎる牙に振り回されて滅んだ生き物。
本郷はサーベルタイガーではない。あいつは、巨大な牙を持ってはいても、それを使いこなすことのできる生き物だ。進化の袋小路にはまりこまなかった生き物だ。
サーベルタイガーは、俺だ。使うことのできない牙を後生大事に抱え持っているのは、俺だ。
いや、違う。俺の拳は使えない牙などではない。
サーベルタイガーの牙も、一度折ったら二度と生えてこなかったのかもしれない。牙の折れたサーベルタイガーは、獲物を仕留めることさえできずに惨めに死んでいったのかもしれない。
それでもいたはずだ。折れることを恐れずに、その牙を相手に突き立てた奴が。
俺の牙は、まだ折れてはいない。
「……ナイン！」
井波が立ち上がった時、客席からは歓声というより失望の声が上がった。
レフェリーが試合続行の意志を確認するかしないかのうちに、第四ラウンドは終了した。
椅子に座ると、麻薙が直接口の中に水を注いでくれた。いや、これは水じゃない。
「もったいねえから、全部飲んじまいな」
日本酒だ。口の中の血や何やかやと一緒に、それを飲み下す。
ほんのわずかな量だったが、アルコールが水分に飢えた胃を激しく突き刺し、少し咳きこんだ。
「……勝ってこい」
言って、麻薙はエプロンから下りた。
最終ラウンドだった。もはや、井波を応援する声など一つも聞こえない。
「本郷、真空飛びヒザ蹴りだ！」
酔っ払いが叫ぶ。
酔っていない奴も叫ぶ。
もう一度、井波をぶっ倒せ。
今度こそ、立ち上がれないようにぶっ倒せ。
だが、本郷は慎重だった。このラウンドが始まってからの井波の雰囲気に、何か今までと違うものを感じていたのかもしれない。それでも、彼はチャレンジャーだった。時代を揺さぶることが彼に課せられた使命だった。
時代は、劇的に変わらなくてはならない。 すでに二度のダウンを奪っている本郷であった。判定で逃げ切ることも可能だった。だが、何かを手に入れようとするなら、徹底的にやらねばならない。
古い物は叩き潰す――それが、リオデジャネイロのスラム街で生き延びるために彼が学んできたことだった。
殺すかもしれない。
井波豊を、殺してしまうかもしれない。
殺したくはないが、殺すつもりでいかねば、ＫＯ勝ちもない。もう一発、井波の頭にヒザ蹴りをくらわしてやるつもりだった。
井波が死なないことを祈りながら踏みこんだ。けれども本郷は、殺してしまってもいいと言っている自分がいることも知っていた。
本郷が踏み込んでくる。
一気にヒザで勝負をつけるつもりだ。井波はそう確信した。
間合いが詰まる。
牽制の右ジャブに続いて、左ヒザが跳ね上がってくる。まさにその瞬間、井波の右拳が振り下ろされた。
ごっ。
井波は、自分の右拳と、本郷の左鎖骨とが共に砕ける音を聞いた。
本郷は井波の拳に押されるようにして、よろよろと二、三歩下がった。
下がったが、倒れなかった。
井波の右腕が、だらんと垂れた。
客席は、静まり返っていた。
滅び行く獣が、最後の咆哮を放った。
井波は無造作に左足を一歩踏み出すと、そのまま何のためらいもなく左拳を振り下ろした。
骨が砕ける音は、客席にまで響いた。
本郷は倒れ、そのまま起き上がろうとはしなかった。
「五ラウンド二十五秒、ノックアウトにより、井波豊選手の勝利です！」
両腕をだらんと垂らして立ち尽くす井波に、レフェリーが歩み寄った。手を挙げさせようとグローブに触れ、何かに気づいたように手首をつかみ直して手を挙げさせた。
歓声が響く。圧倒的な勝利が、客席の心を再び井波に呼び戻していた。
井波はライトを見上げ、両手を天高く差し上げたまま動かなかった。
麻薙がリングに昇って来て、動かない井波の体を抱き締めた。
《完》