目を覚ましたとき、私はたいがい泣いている。どんな夢を見ていたのかどうしても思い出せないけれど、どういうわけかいつも泣いている。だから、毛布を頭までかぶって寝る。カメラになんか見られてたまるか。ましてやカメラの向こう側にいるはずの……ブルースには。
今日もまた、泣きながら目覚めた。けれども毛布からは出ない。出てしまえば一日がはじまる。だから、私は眠い。
うとうとしようとしたが、体は完全に目覚めていて、心臓の鼓動が起きることを要求していた。
体を起こしたとき、胸がシャツに擦れて痛かった。正確には乳首が。触ってみると固い。あわててパンツの中に手をやった。おそるおそる手を引き出す。
血はついていなかった。だが、いつかはその日が来るのだ。私が、私の肉体が否応無しに大人になる日が。
一日がはじまるのは常に恐ろしい。そしていまや、一日が終わるのさえ恐ろしい。これから毎日、目を覚ます度にパンツの中に手をやり、そして恐怖に震えるのだ。今日こそは女になってしまったかもしれないと。
私は閑散とした食堂で朝食を食べていた。私の他にいるのは数人の研究者だけだ。
パンをゆっくり噛む。コーヒーを口の中でもて遊ぶ。できるだけゆっくり食べる。ほとんど味が無くなるまで。おいしくなんか、ない。
ガキどもは授業に出ているはずだが、私には授業はない。あんな馬鹿馬鹿しいことには付き合っていられない。私には必要ないんだから。授業で習うようなことは全て身につけているし、そのことはあらゆる教科のテストで証明してやった。それでも、脱走事件の前は、週に一度くらいの個人授業を受けていたのだが、あれ以来それさえ受けていない。
食べ終わってしまった。私はやむを得ず立ち上がり、食堂を出た。食堂が好きなわけではない。でも、食事の他にすることなどない。
生きていることは苦痛ではなかった。ただ、一日は長過ぎると思う。
腰を降ろし、壁に背をもたせかけた。ここまでは授業の音は聞こえてこない。壁に後頭部を軽くこつんとぶつけて、目を閉じた。タバコとコーヒーの匂い。この壁のすぐ向こうにある警備室から、わずかに開いたドアを通じて流れてくる。
廊下に座ったまま待った。タタタン、タン。タタタン、タン。待ち望んでいた足音が聞こえてくる。
ブルースは私を見つけると、いつものように警備室のドアを開け、私を目で招いた。私はいつものように首を横に振り、座り直した。洗濯屋はずいぶんと楽になったことだろう。ここではスカートは土の上ほど汚れない。
私はあの脱走以来毎日、一日のほとんどの時間をここで過ごしていた。誰と話すでもなく、何をするでもなく、一日が終わるのを待つのはここと決めていた。別にどこでもいいのだ。もう隠れる気はないから、どこにいたって同じだ。たまたまここだっただけのことだ。ここが居心地がいいとか、そういうことではない。
私はもう気が付いてしまっていたから、ここでじっとしているのは別に辛くなかった。どうせ、どこにも居場所はないのだ。ここを出ていったところで、私は誰にも受け入れられはしないのだ。
現に、ブルースだってあの時追いかけてはくれなかった。それまではまだ、ブルース（当時はまだ名前を知らなかったけど）ならひょっとして、と思っていた。でも、彼も私を受け入れてはくれない。
何か理由があったのかも知れない。私を外まで追いかけられなかった理由が。
あるはずもない。馬鹿げた妄想だ。足をひきずっているから走れなかった？確かにブルースは右足をひきずっている。でも多分違うだろう。そもそもあの穴の存在を知っていたのにそのままにしておき、私が逃げるように仕向けたのは彼なのだから。
私は私を嫌いで、だから世界の全てを嫌いで、だから世界の全ても私を嫌いなのだ。これは私が教えてくれたことだし、知っていたことだった。
喧噪が聞こえはじめた。授業が終わったのだ。もう行かなくては。授業が終わると、ガキどもがブルースのところに遊びにくるのだ。あんなＩＱの低い奴らと顔を合わせるのは御免だ。
立ち上がろうとしたとき、警備室のドアが開いた。タタタン、タン。安全靴の奏でるいつものタップが、私の前で立ちはだかるようにして止まった。私はブルースの顔を見上げた。いつものように、くりくり動く大きな目が、いたずらっぽい輝きをたたえている。にもかかわらずその圧迫感は強く、私は動くことさえできないでいた。心臓が高鳴る。恐怖とも期待ともつかない感情。
ブルースはしゃがんで、私と目の高さを合わせた。和ませる気か？あまりに古い手だ。と、思いきや、私がびっくりして身を縮めることさえできぬほど素早く、彼は私を抱え上げ、立ち上がっていた。
我に返っても、私は暴れなかった。ブルースに抱き上げられたのは二度目だった。情けないことに涙が出そうだった。でも、ほだされるもんか。私は知ってるんだ。悪意があるのかどうかまではわからないけれど、あんたも私を嫌いなんだ。
ブルースは私を抱え上げたまま警備室に入って行き、私を椅子の上に降ろしてからドアを閉めた。私は椅子から降りて、壁際にしゃがみこんだ。信じるもんか、何をしたって。
彼は何も言わずに流しへ行き、カップを二つ無造作にゆすいだ。それからその二つのカップにコーヒーを注ぐと、一つを私の方に差し出した。私が首を横に振ると、カップは私の目の前に置かれた。それから彼は、私の目の前にしゃがみこんで、コーヒーをおいしそうに飲みはじめた。はじめの一口は香りを楽しむように口の中で転がして、残りは熱くなんかないかのようにごく、ごく、ごくと喉をならして飲み込んだ。
私もいつの間にか、コーヒーのカップを手にとっていた。飲み物にしろ食べ物にしろおいしいなんて思ったことはなかったが、このコーヒーはおいしそうだった。ブルースは、私がカップを口元に持って行くのを嬉しそうに眺めていた。
熱い。でもおいしい。
私は思わず微笑んでしまい、慌ててブルースを見た。ブルースは自分が今このコーヒーを味わっているみたいに、微笑んで私を見ていた。
コーヒーを飲み終わっても、私は立ち上がろうとしなかった。もうじき子供達がくるけれども、どうでもいいような気がしていた。
警備室は、他の部屋と様子がまるで違っている。誰も吸っていなくてもタバコの匂いが立ちこめていて、壁や天井はヤニのせいでうっすらと黄色く染まっている。
機械の類いがほとんどないことも奇妙だ。おそらく立ち入りの禁じられているモニター室の方にあるのだろう。今も私の部屋を映しているはずのモニターも。ここにあるのはコーヒーメーカーと冷蔵庫、それにテレビとラジオ。テレビもラジオも一日中つけっ放しだ。私の部屋を含め、ほとんどどこにでも二、三台はあるコンピュータが一台もないのも奇妙だ。
流しにはいつも、洗っていないコーヒーカップが山積みになっている。コーヒーを飲むときは、誰が使ったかもわからないそのうちの一つを簡単に水でゆすいで（飲み口にこびりついたコーヒーを落としもせずに）使う。コーヒーは常にたっぷりと、こちらも清潔とはほど遠いコーヒーメーカーに沸いている。
あれから私は毎日警備室に座っていた。授業が終わり、子供達が集まって来ても私は動かず、壁に寄り掛かってしゃがみ、時折ブルースがいれてくれるコーヒーをうまそうな顔も見せずに飲んでいた。
彼は子供達にはかなり人気があるらしい。毎日少なくとも二、三人の子供−−たいてい私よりも年下である−−が遊びにきて、彼と話をしていく。そんなときブルースは、私の方にくりっと大きな目を動かして、白い髭の下に微笑みを浮かべ、仲間に入らないか、と無言の誘いをする。大きなお世話だ。授業に出なくてはならないような知能指数の低い連中と話をしても得るものはない。
さすがに毎日座っていると、遊びにくる奴の顔を覚えてしまう。会話を聞いていれば名前もだ。自分の記憶力が恨めしい。そんなもの覚えたくもないのに。
たいていの奴は、私に一度か二度話しかけ、無駄だとわかるとそのまま私を放っておいてくれた。結構なことだ。でも、一人だけ違う奴がいる。
名前はランといった。ラテン系のようだが、本名なんか知るもんか。年は私より一つ下らしい。とにかく、私はこいつが大っ嫌いだ。
第一印象は、「いいやつ」だ。子供らしくきびきびと動き、はきはきと受け答えをする。人懐っこく、物怖じしない。背が高くて、背筋もぴんとしていて、おまけにハンサムだ。
だからこそ、私はこいつが大嫌いだ。一見礼儀正しく、その実は他人に媚びているのがみえみえだ。お前は確かにブルースより賢いだろうが、彼に知識をひけらかして馴れ馴れしく振る舞うのは、見ていて不愉快だ。
何と言っても一番腹が立つのは、心配そうな顔をしていちいち私に声をかけてくることだ。声をかければ誰でも相手をしてくれるとでも思っているのか。この私に向かって、おまえはいったい何様のつもりだ。誰とでも仲良くすることができると、おめでたいことでも思っているのか。
「友達がいないの？」
ああ、そうだよ。お前と友達になるくらいなら、一人の方がましだ。それにどうせ、わたしは一人なのだ。
私は奴が我慢ならない。特別に嫌いだ。これは決して嫉妬なんかではない。私がブルースをまた好きになりかけているなんて、あるはずがない。
奴が、私の持っていないものを持っていることは認める。奴には多くの友達がいて、ブルースもその一人だ。でも、私はブルースやランも含めて、みんな嫌いだ。奴が持っているものは、私が捨ててきたものだ。いや、手に入れたこともなく、手に入れようと思ったこともなく、この先手に入れることもないであろうものだ。
ここにいるのは、おいしいコーヒーだけ他のところよりましだからだ。じゃあ、そもそも何故警備室の外なんかに座っていたのだ？
ブルースが好きになりかけているから、ランが嫌いだと考えるのが一番筋が通っている。でも、そうじゃない。
ベルが鳴り、ガキどもの声が聞こえはじめた。私の耳はすでに、一番聞きたくない足音を聞きつけている。ぺたぺた、ぱたぱたと扁平足でもないくせに（あるいは扁平足なのか？）やかましい音をたてて、奴がやってくる。
「ハイ、ブルース」
「ハイ、ラン」
ブルースもブルースだ。こんな奴、相手にしなければいいのに。
「今日習ったことは、よその奴らじゃハイスクールにならないと教えてもらえないことなんだぜ……」
またひけらかしがはじまった。よその学校を知りもしないくせに。こんな奴に腹を立てるだけ馬鹿馬鹿しいことはわかっていたが、でも腹が立った。ブルースがいちいち感心したようなあいづちを打っているのを見て、なおさら腹が立った。いいや、腹を立ててなどいない。だって、ここで怒ったら、まるきり嫉妬じゃないか。そうしたら、私はブルースが好きだということになってしまうじゃないか。
私はブルースを信用しない。彼は、私が一番助けて欲しかったときに助けてくれなかった。あのとき見殺しにしておいて、いまさら優しくしてくれたって、信じるもんか。今度もきっと悪意があるんだ。あの穴をそのままにしておいたように。私を追いかけてくれなかったように。ブルースなんか好きじゃない。
ひょっとしたら私は、何かぶつぶつと口に出していたのかもしれない。今しがたまで私のことなんか目に入らないように振る舞っていたランが、突然私の方を向いたのだ。そして、言った。
「レスフィは知らないよな」
おまえが知っているようなことは全部知っているよ。でも、言葉が出なかった。この馬鹿は、私のことをレスフィと呼んだのだ。レピでなく、レスフィーナでさえなく、レスフィと。知っていて故意にやったのか−−そうに決まっている。どこからその情報を仕入れてきたのか知らないが。
無視すべきだったのだろう。あるいは怒鳴りつけてやればよかったのかもしれない。でも、どちらもできなかった。肩にすさまじい力が入って、息があがった。私はレスフィとよばれることに我慢がならなかった。母さんが私をそう呼んでいたことを、まだ覚えているから。
私は自分の内側に生じた感情に振り回されて身動きもできなかったのだが、ランはそれを無視ととったようだ。むっとした表情で、
「何だよ、前から思ってたんだけど、ブルースと話をするわけでもないのに、何でそんなところにいっつも座ってるんだよ。用がないなら、邪魔だからよそへ行けよ」
「うあああああああああああああああっ！」
そのとき私があげた声は、もっとすさまじく表現のしようもない金切り声だった。ランの胸倉をつかむ。奴の服からボタンがはじけ飛ぶのも構わず、飛びついた勢いで、そのまま奴を体ごと壁に叩きつけた。ランの頭をごんごんと、何度も何度も壁に叩きつけた。
でも、それは五回目でストップした。私は首が絞まるのを感じ、それから自分の体が宙に浮いたのを知った。ブルースが、襟をつかんで私を持ち上げていた。
私はブルースを見た。ブルースの目は、今度はしっかり私を見つめていた。私はブルースの目の中に、厳しいたしなめと、もう一つのものを見た。
それを見たとき、わたしはもう一度あの声をあげた。
「うあああああああああああっ！」
襟を支える手の力がゆるみ、私は体をよじってブルースから逃れることができた。そして、一目散に走った。
おんなじだ、ブルースも。ランや、ここの先生達と一緒だ。ブルースはあのとき、目でこう言ったのだ。
「君のことはわかっているよ」
違うのに。誰も私のことだけはわからないのに。ブルースもわかったふりをするんだ。知ったかぶりのランみたいに。わかったふりをしないで、話しかけもしないで、ただ置いてくれたから嬉しかったのに。
でももし、ブルースが本当に私を理解しているとしたら。その考えは、私を心底から凍りつかせた。部屋のドアまであと数歩だったが、体をよじるようにしないと足が前に出なかった。ブルースは、何もかもわかった上で私の存在を、私の行動を容認していたのかもしれない。考えてみればその徴候はあった。外への穴の存在を知りながら何故黙っていたのか？隠れた私をいつも見つけだしてくれたのは？私を警備室の中に連れ込んだのは？
馬鹿にしている。ブルースも私のことを馬鹿にしている。たった一人私のことを馬鹿にしていない人だと思っていたのに。
私に悪意を持っていて、私を傷つけるためにしてくれたことだと考えた方がまだましだった。私なんかどっかに行ってしまえばいいと思っていたから、壁の穴をそのままにしておいたんじゃなかったんだ。まだその方がましだったのに。
私は倒れるように部屋の中に転がりこんだ。ブルースもみんなと同じだ。みんな私を馬鹿にしている。
みんな嫌いだ。
ベッドの底の穴はそのままだった。私がいつかぶんなぐって開けた穴だ。これは誰もベッドの下まで調べはしていないという証拠でもあり、私は自分のささやかなプライベートスペースがまだ守られていることを知って、少しほっとした。
天井（というかベッドの床）がのしかかってくる感じは、圧迫感というよりむしろ心地よかった。このまま本当に押し潰されてしまえば、楽でいいのに。
天井が落ちてはこない事を知った私の目は、次の期待を拳で開けた穴へと向けた。どろどろとした黒いジェリー状の怪物が染み出してきて、私を溶かしにくるのを待つ。でも、ジェリー状の怪物のかわりに、そこに浮かんだのはブルースの顔だった。
あの目は私の脳裏に焼き付いていた。
「君のことは、わかっているよ」
ウソだ。いや、ウソならまだいい。ブルースは本当にわかっているのかもしれない。わかってくれているのかもしれない。
いいや、わかりっこない。確かにブルースは特別だ。私がどんな風に隠れても必ず見つけてくれるし、何も言わずに私をあそこにいさせてくれる。私はあそこにいたいだけなんだ。ランがやるみたいな、くだらないおしゃべりをしたいんじゃない。
「用がないならどっかに行けよ」
口調まで思い出せる。思い上がるな。おまえにいったいどんな用があるというんだ。ブルースはおまえなんか好きでもなんでもないんだ。ただ、人がいいからつきあってやっているだけなんだ。そのはずだ。……もし、ブルースが私よりランのことを好きだったら？
どうすれば、ブルースに好きになってもらえるんだろう。そもそも、私はブルースに好きになってもらいたいのか？
「おまえなんか、きらいだよ」
また、あの絵だ。私が見た、私の、あの絵だ。
「ブルースだって、きらいだよ」
動くはずのない絵が動いた。表情はそのまま、口も動かさずに、手に持っていたハンカチを落とし、空いた手を私の胸につきつけた。まるで糾弾するかのように。
私は床に押さえつけられていた。彼女は私を指一本で、触れもせずに押さえつけていた。そして勝ち誇るわけでもなく、ただ繰り返した。
「おまえなんか、きらいだよ。ブルースだって、きらいだよ」
食事を告げるチャイムが、私を正気に戻した。幻想のあの絵は消え、私は自由だった。でも、確かに胸には指の感触が残っていた。
私は、もうあの部屋に座っていることはできなかった。彼女は決断を迫ったのだ。私でもある彼女になって、全てを嫌って、誰にも話しかけずに生きるか。それとも？
私はブルースが……好きだ。私をしげみから抱え上げ、泣き続けるのをあやしてくれたあの歌を覚えている。
だから、聞かなくちゃいけない。ブルースは知っていたはずなんだ。あのとき、私が外へ逃げ出したとき、ブルースに追いかけて欲しかったことを。いつもみたいにつかまえて、連れ戻して欲しかったことを。
ブルースは私を好きなのか、嫌いなのか。馬鹿にしているのか、いないのか。私のことを本当にわかっているのか、わかったふりをしているのか。
ブルースが私を好きなら、わかったふりでも構わない。もう、どうでもいい。ブルースが他のみんなとおんなじでも構わない。
今日はブルースが宿直の日だ。皆が寝静まり、二人だけで会うことのできる時間になるのを、私は息を潜めて待った。どきどきしているというより、ほとんど青ざめていた。
夜中に部屋を出ても平気なことはわかっていた。ブルースが宿直のときは、ちょっとくらいは大目にみてもらえる。これがわかるまでに何回捕まったことか。
先生達のいる研究棟の方はまだ明かりがついていたが、この宿舎棟はもう真っ暗だった。十一時五十三分。消灯は十時だった。
リノリウムの床は音が響く。特に夜は。でも、ほとんど音を立てずに歩くのなんか簡単だ。ランみたいな歩き方をするやつと一緒にされては困る。
非常灯の明かりは緑色だ。鏡があれば、さぞかし青ざめて映る自分の顔にぞっとすることだろう。そして私は、実際青ざめているのだ。
私の足は、いつしか一定のテンポを刻んでいた。タタタン、タタタン、ブルースの立てるあのテンポだ。別に右足にケガをしているわけでもないのだが、ブルースのまねをしてみたかった。いつの間にかかなり大きな足音をたてていたが、気にならなかった。
階段を二階分降りると、そこはもう警備室のドアの前だった。立ち止まると、ろくすっぽ呼吸を整えもせずにドアをノックした。何も考えていなかった。何をどう言えばいいのか、ブルースの目の前に立てば自然にわかるはずだった。
いつまで待っても返事はなかった。夜回りだろうか。それとも眠っているのだろうか。
カギは開いていた。私はためらわずにドアを開けた。
どのくらいこうしていただろう。私はまるで腰を抜かしたように、お尻をぺたんと地面につけて、両手で後ろに倒れそうになる体を支えて、座り込んでいた。
ブルースはそこにいた。うつぶせになって床に寝転がって。額が割れて血が流れ出していたが、もうほとんど固まって、止まっていた。
目は見開いて、少し濁っていた。時間とともにその瞳はますます濁ってくるようだった。こんな表情のブルースは見たことがない。いつも目はきらきら光って、くるくるとよく動いていた。口元はこんな風に歪んでなくて、静かに微笑んでいた。
ブルースが息をしていないのには、ちゃんと気がついていた。でも、それがどうしても、死んでいるということには結びつかなかった。
目の前のブルースとは無関係に、私は自分の体の中で何かが始まっていることに気が付いていた。下腹部の痛みは、耐えられなくなったりおなかを抱えて苦しむようなものではなかったが、私自身の心臓とは違うもう一つのテンポで襲ったりひいたりを繰り返していた。下腹部にもう一つの心臓があるみたいに。
心臓？ブルースの心臓だ。耳をあてればいい。そうすれば何もかもはっきりするはずだ。これが、たちの悪いいたずらなんかじゃなくて……なくて……
パンツの中に、温かいものが流れ出すのを感じた。おしっこじゃない。それはわずかな量だったので急速に冷えていった。
思わずうめき声をもらした。パンツの中の感触の気色悪さと、下腹部のするどい痛みに。私のもう一つの心臓が、拍動のかわりに痛みを送り、血をめぐらせるかわりに血を流し出したのだ。
もう一つの心臓は、子宮ともいう。そして、これは……初潮、だ。もう私にはわかっていた。私は、生まれてはじめて知識を自分の体で実際に体験しているのだ。
私は這いずるようにしてブルースのところへ行った。ブルースに聞かなくてはならないことがあったのだ。
ズボンのすそをめくると、答えはあった。ピンク色の肉が盛り上がった銃創が。弾が貫通した様子はなく、手術の跡もないから、弾丸はまだこの中に入っているはずだった。それが彼の足をひきずらせ、おそらくは間接的に寿命を削りとっていき、今日に至らしめたのだ。
そして、彼はおそらく走れなかった。だからあの日、私を追うことができなかった。私を見捨てざるを得なかったのだ。彼はやっぱり、私のことを気にかけてくれていたのだ。私のことを好きだったのだ。
これが、自分勝手な想像に基づく憶測だなんて、百も承知だった。でもそれでもいい。どうせ誰も証明できないことだ。ブルースが私のことをどう思っていたのか、たずねることは二度とできないのだ。
私はもう一つの心臓を抱き締めるようにして座り直した。二つの心臓の鼓動を感じた。止まってしまっているはずのブルースの心臓の鼓動を感じているみたいに。
私はブルースが好きだった。ブルースと話すことのできるランがうらやましくて、だから嫌いだった。それは同じ嫌いでも、絵の私が私につきつけた『きらい』とは、正反対の『嫌い』だった。誰かとかかわって生きていくときにはじめて生じる「きらい」だった。
ブルースの顔がゆっくり変わっていくのを、目を離さずに見ていた。口元が少しずつ緩み、いつしか笑みさえ浮かべていた。目は穏やかに閉じて、眠っているみたいだった。