この部屋には窓がない。だから、朝陽は差し込んでこない。にもかかわらず、私は朝が来たのを知っていた。
窓のない部屋で眠れない夜を過ごす。一日、二日、一週間。張り詰めた神経が、その一本一本のありかまで感じられてくる気がしてくる。ある時、夜の気配と朝の空気が交替する一瞬に気が付く。それが日の出の瞬間と一致するかどうかは知らない。でも、一度わかってしまうと、眠っていてもその瞬間がわかることさえある。
空気が朝のものに入れ替わると、二つ目の心臓はその鼓動を緩やかなものに変えた。出血も痛みもひきはじめ、冷えきっていた体が再び熱を持ちはじめた。私の初潮はまだ終わってはいないはずだが、とりあえず一段落したらしい。
もう、心臓の鼓動は一つしか聞こえない。眠っているように見えても、ブルースは死んだのだ。それだけのことだ。私はそっとブルースの足に手を触れ、慌てて手を引っ込めた。硬い。それに冷たい。血の凍った皮膚は、ざらざら、ごわごわしている。もう一度傷痕に触れようとしたが、死体の感触は私を恐れさせた。
これはブルースではなく、ブルース以外の何かでもない。さっきまでブルースだった、死体だ。
知らず知らずのうちに距離をとっていた。体が勝手に後ずさりをしていた。手触り以外は何も恐ろしくないはずなのに、恐ろしかった。
どん。何かにぶつかった。いや、誰かにぶつかった。それは暖かくて、ざらざらもごわごわもしていなかったので、私はすがりつくようにその手をとり、そいつの方を向いた。
青ざめたランが立っていた。彼は私を突き飛ばすようにして押しのけ、ブルースのところへ行こうとした。でも、彼も私と同じだった。しゃがみこんで手を伸ばし、ブルースの顔に触れたか触れなかったかで、彼も後ずさりをはじめた。私にぶつかると、脅えた目で私を見た。
「おまえが……やったのか？」
私は肯定も否定もしなかった。けれども、ランの目からすぐに脅えの色は消え、彼はどうしてだか私への疑いを解いたらしかった。
あらためてランの服装を見た。パジャマにスリッパ。きっと毎朝、起きてすぐにブルースのところへ来ていたのだろう（無論宿直でブルースがいる朝だけの事だろうが）。
何か話しかけようと思った。でも、口を開けば何を言ってしまうか、自分でもわかったものではなかった。だからせめて、手を握ろうと思った。さっきはぶつかった勢いとはいえできたことだ。そう思って手を伸ばした。
暖かく、なめらかな手。
でも、私はブルースの肌に触れたときと同じく、触れた瞬間にはもう手を引っ込めてしまっていた。ランはいぶかしげに私を見た。
「とにかく、誰か呼んでこなくちゃ」
彼は部屋を足早に出て行った。それは完全に正しい対応だった。
私はまた、ブルースと部屋に取り残された。もう一度ブルースを見ようとしたが、目はそれを拒否し、きょろきょろと落ちつかなげにあさっての方をあちこちと見ることしかできなかった。
尋問はかなり長く続いた。別に私が殺した訳じゃないことはすぐにわかったが、お偉方は内輪のごたごたをひどく嫌っているから、まあこんなものだろう。
尋問に答えながら、私は別のことをずっと考え続けていた。何故あの時、ランに話しかけたかったのか。何故ランに触れようとしたのか。
「あんたなんか、きらいだよ。」
彼女が、絵の私が私を指さす。でも、私はブルースが好きだった。ブルースに私のことを好きになって欲しかった。もう遅すぎるけど。
「ブルースは、わたしなんかきらいだよ」
そうかもしれない。そうじゃなかったかもしれない。あの足の傷も、どうにだって解釈できる。
ブルースの埋葬は、明日行われるそうだ。
もちろん鍵はかかっていなかった。今更私がまた脱走するなどと、誰が思うものか。ブルースなら思ったかもしれない。彼はもしかすると私のことをわかっていてくれたのかもしれなかったから。でも、彼はもう何も気がつかない。
朝早いので人目はなかったが、一応足音を忍ばせて建物を出た。庭に出て、塀の穴があった植え込みの陰をのぞく。信じられないことに穴はそのままになっていた。私はこの穴から脱走したのだ。さすがのブルースも、この穴のことを報告しないわけにはいかなかったはずだ。そして、報告が行っていれば、修理されていないはずがない。でも、そこに穴はぽっかりと開いていた。
塀の外側には排水溝があるので、穴をくぐって外へ出るには大きくまたがなければならなかった。はじめてつけた生理用品がわずかに擦れるのが気になった。
あらためて外から穴を見ると、道路との段差と排水溝のおかげでうまい具合にほとんど見えない。おかげで今までここが見つかることもなかったのだろう。
私は塀に寄り掛かって座り、ポケットから紙を取り出した。自室のコンピュータから割り込んで手に入れた地図だ。目的地まではそう遠くないはずだった。
何も難しいことはない。私はそう素っ頓狂な格好をしているわけでもないはずだし、今はまだ朝だ。普通に、何気ないふりをして歩いて行けばいい。
前回抜け出した時とくらべると、私は随分落ち着いているはずだ。ちゃんと車が来ていないことを確認してから道路を渡り、歩道を歩いた。空はどんよりしていたが、すぐに雨が振り出すことはあるまい。
五、六人の子供達が私を半ば突き飛ばすようにして追い抜いていった。たぶん学校へ行く途中なのだろう。とすると、コースは考える必要がある。私くらいの年格好の子供が、学校の前を素通りしては変に思われるだろうから。
私は道端に座り込んで地図を検討しはじめた。それから、道行く人の視線に気付いて慌てて立ち上がった。この方がよっぽど変に思われるらしい。
結局、私は小学校の前を素通りするはめになった。誰も私に声をかけてはこなかったし、確かに妙な目で見られはしたが、みんな自分のことの方が大切なようで、門の中へ消えて行った。あたりまえだ。施設の外でも、やっぱり他人のことを構っている余裕なんかありはしないのだ。
ランもブルースも同じだ。私のことを構ってくれるような素振りを見せてはいたけれど。
ここはいい場所だ。風が何にも邪魔されずに吹き抜けていく。
ブルースのお墓の脇には、五人しか立っていなかった。二人は同僚の警備員、二人はあの施設の、いわば重役クラスの準責任者。最後の一人は神父。ブルースには身内がいなかったのか、それとも何らかの事情で来られないのか、ともかく彼はたった五人の人間によって送られて行った。
「灰は灰に、塵は塵に……」
風向きの加減か、その一節だけが耳に入った。映画や何かでよく聞くセリフだ。
この墓地はまるまる一つの丘を使って造られている。私がいるのはほぼてっぺんで、ブルースと彼を送る人達がいるのは、日当たりの悪い北向きの斜面の中腹だ。
私には特に隠れているつもりはなく、見つかったら見つかったで別にいいのだが、多分見つからないだろう。葬式のとき、人はあまり上を向かないものだ。
ブルースは北側の斜面か。連中が金をけちったのがよくわかる。それはブルースにはかえって似合っているような気もしたし、逆に今私のいるてっぺんこそがふさわしいような気もした。すぐ脇に立っているお墓を蹴飛ばしたが、何となくだ。本気で蹴ったわけではない。
ブルース、私ね、女になったんだ。多分あんたのおかげで。
言いたいことは山ほどあった。でも、辛うじて言葉になったのはそれだけだった。口には出さなかったが。
素性も知れないプエルトリコ系の人夫が、ブルースの墓に土をかぶせた。彼らが立ち去った後、五人の参列者はもう一度祈りを捧げ、そして車に乗り込んだ。
それから私は、降りて行ってブルースの墓の前に立った。たった今埋め戻したばかりの土は柔らかく、足が地面に軽くめりこんだ。
一雨来そうだった。
雨のにおいが強く立ち込めてきた。もう一時間もしないうちに雨になるだろう。気温が急に下がって、冷たい風が丘のてっぺんから吹き下ろしてくる。
私は、ブルースの墓の前に座り込んでいた。昨夜死体の前に座っていたときよりも、彼がもういないという感じは強かった。
冷えたせいか、いったんおさまっていた下腹部の痛みがぶり返していた。さらに、胸も突っ張った感じで妙に痛くて、私はいやがおうにも自分の肉体の変化を感じていた。
私ね、女になったんだよ。頭の中でつぶやき続けた。ブルースは喜んでくれるだろうか、それとも？
ずっと吹き付けてきていた風が不自然にやんだ。何かが風上で遮ったのだ。そいつはこっちへ歩いてきた。すぐに誰だかわかった。ランだ。奴も穴を抜けてきたのか、それとも外出許可をもらってきたのか。後者の方がありそうだ。何しろ奴は行いがいい。
奴は歩いてくると、そのまま当然のように私の横に座ろうとした。腕を鋭く出して、奴の膝の後ろにぶつける。 ごろん。ぶざまに転がった。いつもなら大笑いしてやるところだが、そんな気も起きなかった。代わりに手を軽く振って、帰れ、とジェスチャーで示した。
奴は私の背後に立つかたちになっていたから、どんな反応を示したかはわからない。だが少なくとも、奴は帰らなかった。そのまま座り込むのが気配でわかった。
話しかけたいくせに。
奴の声に聞こえたが、そうではなかった。私自身の声だなどと、認めることはできなかった。
「ランだって、きらいだよ」
これは間違いなく私の声だ。絵の中から聞こえてくる、私の声だ。
じゃあなぜあの時、ランにすがりつこうとした？
そしてこれもまた、間違いなく私の声だった。
ランは話しかけてこなかった。私は意地で奴の方を決して見なかったが、奴が私の方を見ていることはわかっていた。
ひょっとするとランは、ブルースではなく私に会いにきたのかもしれない。何しろ他人のことを心配するのが好きな奴だ。
思い上がるな。誰も私のことなど気にかけてはくれない。私が誰のことも気にかけてはいないように。ブルースは、あるいは違ったのかもしれないけれど、それも今となっては誰にもわからない。
空気が一段と冷たくなって、いよいよ雨が降りだした。このまま激しく降ってくれればいい。万に一つ、私の足元のまだ柔らかい土を溶かして、私をブルースにもう一度会わせてくれるかもしれない。
知ってるくせに。この下にいるのはもうブルースじゃない。棺桶に入った、かつてブルースだったものにすぎない。
雨は、地面を溶かしてこそくれなかったが、私が望んだ通りに激しく降り注いだ。濡れた髪から雫がしたたって、私は何度も目をこすった。まるで泣いてるみたいに。もう服はびしょ濡れで、シャツの中を水が流れてるみたいだった。パンツの中まで濡れていたから、生理用品はもう用をなさないだろう。体は動かせないくらい冷えきっている。
おなかが痛い。下痢の時とは全然違う。下腹部から膝までずっと痺れて感覚がないくせに、痛みだけははっきりと感じる。襲っては引き、襲っては引くのを繰り返し、回数を重ねるたびに激しく、耐え難くなっていく。堅くなった乳首も痛い。うめき声をあげそうだったが、歯を食いしばってこらえた。ランが後ろにいたから。
出血を感じる。ブルースの馬鹿。私は生理なんていらない。どうせ子供を産む気なんてないし、セックスだって一生する気はない。だからこんなものいらないのに。
背後でランが立ち上がった。そろそろと私に近づいてくる。私は絶叫しながら立ち上がって、ランをにらみつけた。
その時の私の形相がどんなものだったか、私自身にはわからない。でも、ランはその場で立ちすくんだ。目に水がたまっていて、表情まではわからなかった。
私は泣いていた。髪の毛や顔を伝って目には水が流れこんでいたが、そんなものでごまかすことはできない。涙は暖かい。
もう何もかもが嫌だった。はじめて死にたいと思った。生きているのはいつも嫌だったが、死にたいと思ったのははじめてだった。
「ブルースが僕に言った。おまえの友達になってやってくれって」
ランは豪雨にかき消されないように、大声で、一言一句はっきりとしゃべった。その冷静な喋り方が伝染したみたいに、私の頭の中のどこか一部が冷静さを取り戻して、彼の話を聞き始めていた。
「おまえなんか嫌いだけど、おまえはブルースの友達だった。僕もブルースの友達だった」
そうかあ。ブルースは私の友達だったんだ。
私をぶんぶんに揺さぶっていた狂気が一瞬にして去った。痛みは残っていたし、まだ泣いていたけれど、生まれてはじめての認識が私を包んでいた。
ブルースは私の友達だったんだ。私のことを好きだったんだ。いろいろしてくれたりしてくれなかったりしたけれど、みんな私のためを思ってやってくれたことだったんだ。
私はその場に膝をついてへたりこんだ。ちょうど目の前がブルースの墓石だったので、それを抱き締めた。冷たかったし、胸が当たって痛かった。
ランは黙っていた。この先何を言えばいいか、わからないみたいだった。
「わたしなんか、きらいだよ」
でも、私を好きになってくれる人はいたのだ。最初で最後かもしれないけれど。ランもひょっとしたら友達になってくれるかもしれない。あいつは「いいやつ」だから。「いいやつ」は大嫌いだけど、友達なら許してもいい。友達になってくれるかどうかまだわからないけれど。
世界は必ずしも私を否定していなかった。私が私を否定していても。